美濃加茂市・可児市・音の森ピアノ・リトミック 講師紹介

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プロフィール

 

田舎でも恵まれた環境に誕生

岐阜県美濃加茂市に教員の両親の次女として生まれる。

両親とも音楽の経験はなかったが、家には教材として使うレコードがたくさんあり、またアップライトピアノもあった。

母が子供の頃はまだ戦時中でピアノはおろかオルガンさえ弾いたことがなく、教員になるために大学で初めてピアノを弾く事になり大変苦労し、娘(姉と私)にはピアノを習わせておくべきだと考えていたようだ。

なので自然とピアノを習う事になったのだと思う。

小さい頃の記憶として母はよく「女の子は手に職をつけるか、公務員になるのがいいよ」と言っていたので、なんとなく両親と同じ教員ではなく手に職をつけるのがいいかなぁぐらいに思っていた。

 

練習サボリ魔の幼少期

4歳からピアノを習い始める。

自分からピアノをやりたいと言ったのかは定かではないが、姉(8歳上)がピアノを習っていたので流れで同じ先生の所に通うことに。

両親はともに教員で忙しかったからか、「練習しなさい」と言われた記憶はなく、姉の弾いている曲を真似てみたり、宿題ではない曲をよく弾いていた。

譜読みが苦手(面倒)で、レッスンに行くと先生の見本の演奏を思い出しながらその場で音拾いをしているような状態だったので、先生には練習をしてきていないことがバレバレだったと思う。

それでも宿題になっている曲は練習しないで、耳コピした曲や友だちが弾いていた曲ばかり弾いていたのでなかなか教本が進まなかったが、先生は根気強くあの手この手で練習をしてくるように考えてくれた。

幼少期に習っていた先生の根気強く色々な方法で練習に導いてくれたことが、後の私のピアノ指導者としての心構えに強く影響を与えている。

 

ピアノを習っている=上手いと勘違いの小学校時代

ピアノの先生がソルフェージュに力を入れていたおかげで聴音が得意だった。

耳が良かったのは音楽をやる上では良いことだが、私は譜読みを面倒くさがり耳から覚えて弾くクセを付けてしまい、これが良くなかった。

小さい頃は耳コピでなんとか弾くことが出来ても、高学年にもなると曲も長くなり難しくもなる。

たとえ耳コピで音が分かったとしても、練習しないで弾けるほど簡単な曲では無くなっていたので、一曲がなかなか合格しない。

そんな面倒臭がりの私と先生は一緒に練習をしてくれ、譜読みが苦手でも色々弾けるように工夫をしてくれたので、少しずつ教本も進んだ。

4年生の頃だったと思うが、実力が伴ってもいないのにピアノを習っているというだけで合唱の伴奏者に立候補してしまい、ピアノの先生に泣きついて根気強く教えていただいたおかげでなんとか弾けるようになったが、伴奏者として弾くにはお粗末な演奏だったので結局他の上手な子が伴奏者になった。

今から思うとそれほど難しい曲ではないが、当時の私は譜読みは嫌い、練習はサボってばかりだったので伴奏者になれるはずもない。

懲りずに何度か伴奏者に名乗りをあげるも同じ学年にとても上手な子がいて、その子が大抵の伴奏を任されていた。

出来ないとなると変に負けたくない気持ちが出てきて、伴奏者になりたい一心で練習し始め、練習をすればそれなりに弾けるようにもなり、ようやく「練習しなきゃ弾けるようにならないんのだ」と気がついた。

やっと6年生ぐらいになって伴奏の機会を与えられ、嬉しかった。

 

気持ちは音楽の道へ中学時代

中学生になり部活動は吹奏楽部に入った。

ピアノは一人で演奏することが多く孤独な感じがしていたが、部活動を通して大勢で音楽を作り上げていく楽しさをすごく感じた。

ピアノ以外の楽器に触れることもとても刺激になり、自分の担当した楽器以外も友達から借りて吹かせてもらったりした。

色んな楽器を体験したことは、ピアノしか知らなかった自分に音色の幅を持たせてくれたと思うし、呼吸を意識するようになった。

大勢で音楽を作り上げることは大変でもあり達成感も大きかったが、ピアノは一台でオーケストラのように色んなパートを担当もするしソロでも出来る楽器なんだと再認識し、ピアノの素晴らしさを感じることができた。

ピアノの練習はというと小学生の時ほどサボリ魔ではなくなったものの、相変わらず譜読みは苦手なまま。

これは音符が読めないのではなく、細かいたくさんの音符を読むのがただ面倒だったのだと思う。

また、中学1年生の私にはバッハのポリフォニックな音楽が全く理解できず苦戦。

ピアノの指導者になってからこの頃の経験を踏まえて、早い時期からポリフォニックな音楽に触れるべきだと考え、今は教材に取り入れている。

さて、中学生になってから小さい頃になんとなく思っていた「女の子なら手に職を」を少しずつ意識するようになり、技術を身につけるなら好きな音楽を!と考えるようになった。 

両親は「好きなことをやればいい」との考えだったのか、わがままをいつも押し通す私に呆れたのか、特別反対することもなかった。

音楽の道に進みたいと希望した私に、幼少期から習っていた先生が「もっと本格的にピアノを勉強するなら」と言って紹介してくれた先生に中学の途中から代わり、そこから真剣に取り組むようになった。

 

高校(音楽科)に入学し開眼

高校は鶯谷高校(当時は女子校)音楽科に入学。

当時私の住んでいた町(美濃加茂市)から音楽科へ進む子はほとんどおらず、入学した高校まで電車とバスを乗り継いで一時間以上かかった。

自分で行くと決めた高校だったが、通学時間が勿体なく感じ、また多くのクラスメイトが学校にもっと近いことが羨ましかった。

一年生最初の実技試験、自分なりに頑張って練習したつもりではあったが結果は良くも悪くもなく真ん中より少し上もちろん一番ではなかった。

このことが何だかすごく悔しく、また自分より家の近いクラスメイトに絶対に負けたくない!と奮起しそこから猛烈に練習を始めた。

朝は用務員のおじさんが学校を開けにくる時間(6時半頃)には学校に到着し、鍵が開くと急いで練習室に向かいホームルームまでの約2時間をまず練習。

放課後は電車の時間(1時間に1本しかない)に合わせて1時間ほど練習してから帰宅し、帰ってからも自宅でまた練習そんな生活を3年間続けた。

 

勉強するならピアノを弾く

家が遠いことを言い訳にしたくなかったこともあり、「勉強する暇があったらピアノを弾く」くらいの勢いだった思う。

今でも思い出すのは、朝ごはん用に母がにぎってくれたオニギリを1個持って(弁当は自分で作っていた)、父がまだ暗い中駅まで車で毎日送ってくれたこと。

色々と口出しはせず好きなことをさせてくれ協力を惜しまなかった両親には本当に感謝しかない。

あれほど幼少期は譜読み嫌いだったのに、たくさんの曲をたくさん練習すると譜読みのコツも自分なりにつかめ、高校の頃には苦にならなくなっていた。

それから高校の音楽科に進んでから、最初にピアノを習いに行った先生が熱心に取り組んでくれていたソルフェージュと楽典がもの凄く役立った。

小学生の頃の私は「音程?なんだそれ?」くらいにしか思ってなく、とにかく先生が覚えやすい様に大きな表に書いてくれたものを丸暗記した程度だった。

おかげで高校のソルフェージュと楽典の成績は良かったので、その点でも最初のピアノの先生は色々教えてくれていたんだなぁ、と自分もそうありたいとピアノを教えるようになってよく思う。

 

一つ目の挫折

さて高校に入って奮起したおかげでピアノ実技の成績も上がり、3年生になりいよいよどこの大学に狙いを定めるかとなった時、音楽科の先生方や両親からは東京の音大を勧められるも、当時はあまり遠くに行きたくないと思い(今は遠くに行けば良かったと少々後悔)愛知県立芸術大学を目指し、とにかく練習練習の日々だった。

いざ大学受験!当時は共通一次試験の時代。

そして二次試験は実技一次試験と実技二次試験、その後に楽典ソルフェージュの試験だったように記憶している。

実技一次試験はショパンのエチュードを4曲(今とは随分課題曲も違う)

無事一次試験通過。

そして実技二次試験。

課題は古典派からソナタ全楽章ベートーヴェンのソナタを選曲。

ベートーヴェンは小さい頃から好きで、自分としては得意な方だったこともあり落ち着いて試験に臨めたが、まさかのミス

1楽章・2楽章、練習通りに弾け最後の3楽章どうしてそんなミスをしたのか未だに分からない(単に練習不足と言えばそれまでなのだが)、それまでに一度も無かったミスに動揺してしまい、ミス以降全く集中の欠けた演奏になってしまった。

ミスをしたことがショック過ぎて泣きながら公衆電話から先生に電話をしたことは覚えているが、どうやって帰宅したか記憶がない。

結果は不合格。

この後すっかり人前で弾くことが怖くなり、今でも人前は苦手のまま。

 

二つ目の挫折

大学は滑り止めで受けていた名古屋音楽大学に進学。

私の大学生時代はまさにバブル絶頂期で、受験に失敗したショックを引きずったままピアノそっちのけで遊んでいた。

入試でのミスがトラウマのようになり、大学生になってからも人前での演奏が怖かった。

だからといって音大なのでピアノを弾かないわけにもいかず、何とかそのトラウマを克服したいとも思い悩んだ。

大学生になり浮かれた気持ちで遊んでいたが、達成感のない毎日はつまらなく、自然とまたピアノに向き合うようになった。

 

ピアノで癒される

人前での演奏は苦手でも、これまでずっとピアノ毎日弾く生活をしていたので、自分の心を癒してくれたのもやはりピアノだった。

4年生になり、せっかく音大に入ったからには演奏会に出たいと思い大学の定期演奏会のオーディションにチャレンジ。

しかし

またやってしまったありえないミス。

曲の冒頭で音を思いっきり間違えてしまった。

ミスタッチどころではなく全く違う音を弾いてしまい、それに焦った私はもう一度初めから弾き直してみたが、すっかりパニックで最後まで弾ききったのが不思議なくらい。

結果はやはり落選。

大学受験に続いて二度目の大きな失敗立ち直ったと思っていたのに、逆にますます舞台に立つことが怖くなり今も人前は苦手なまま。

この大きな二つの失敗から立ち直ることなく大学を卒業。

 

手探りの教室作り

大学を卒業し1年だけヤマハでピアノ個人レッスンを受け持ち、さらに自宅でも教室を始めた。

身近なところに小さい子がおらず、また教室を開いたはいいが宣伝の仕方も分からず、全てが初めてのことばかりで手探り状態。

今のようにネットで情報が手に入る時代ではなかったので、電話帳で看板屋を探して教室看板を頼みに行ったり、ワープロ(今は絶滅した笑)で手作りのチラシを作って配ったりした。

母の知り合いのお子さん2名から始まった教室も、地道な営業活動?で少しずつ生徒が増えていった。

大学卒業後22歳で結婚、ヤマハでの講師は1年で辞め実家で始めたピアノ教室だけでレッスンをするようになった。

周りに教室も少なかったからか数年で生徒数が30名ほどになり、子どもが生まれるまでその状態を維持し、教室単独で発表会も開催出来るようになった。

 

子どものための人生~娘

29歳で長女、32歳で長男を出産。

長女を出産後、実家の近くに自宅を新築し教室も移転。

実家は近かったものの両親が高齢であまり頼ることが出来なかったので、生徒募集は特にしないで口コミで来てくれる生徒さんでレッスンを続けた。

募集をあえてしなかったので生徒数は減ったが、その分子どもと一緒に過ごせる時間が増え、生活は子ども達中心になった。

娘がピアノを始めた4歳からは娘中心の生活に。

恥ずかしがり屋でおとなしい娘でしたので、何か一つ人より出来ることがあったら本人の自信になるかと思い身近にあったピアノを選び、小学校の低学年までは私がレッスンをみていた。

よく同じピアノの先生方に「我が子は教えれない!」と話を聞いていた通り、自分の子には冷静に指導がなかなか出来ず感情的になってしまい、娘には厳しいレッスンだったと思う。

 

ママ先生、卒業

このままでは娘に良くないと思い、私の大学時代の恩師(当時は教授)にレッスンをお願いし、先生の所まで毎週高速道路を使って1時間以上かけレッスンに通った。

先生は、私の大学生当時大人の生徒さんしかレッスンされていなかったが、娘と同じくらいの歳のお子さんも何人かレッスンされるようなっていて、楽しんで通うようになった。

高い技術指導で娘も随分上達し、コンクールにもたくさん出させてもらった。

ただ本来おっとりした性格の娘に競争心はなく、舞台の上で綺麗なドレスを着てピアノを弾くことは大好きだが、コンクールで賞を取るための演奏には向いていなかった。

毎月何かしらコンクールに出るという生活が大変になり、またコンクールのためのレッスンも楽しくなくなりピアノに集中しなくなった。

これが娘が中学生になっても続き、マイペースな娘にはコンクールに追われる生活が負担になり、また私自身もコンクール漬けの生活に疲れてしまった。

楽しく弾いていない娘の姿に「これは本当ではないな」と感じ、中2の時に教授のピアノレッスンを辞めさせた。

それ以降ピアノをどこかに習いに行かせることはしなかった。

 

まさかの決意

娘自身ピアノが嫌いだったわけではなく、コンクールのためにピアノを弾く、コンクールのための練習が嫌になっただけなので、レッスンを辞めてからは自分で好きな曲を弾いたり学校の合唱伴奏をしたりと彼女のペースでピアノを楽しんでいた。

すっかり趣味でピアノを弾いていると思い、私もノータッチだった。

小さい頃からハイレベルなレッスンを受けていたため大抵の曲を自分で弾くことができる娘だったが、「自分にはピアノしか得意なことがないから音楽科のある高校を受験したい」と言い出した時はビックリした。

私自身高校から音楽科でその大変さ(遠いところを通わなければならないこと、普通科と同じ勉強をしさらにピアノも練習しなければならない)を知っていたので、随分娘の志望校を決める時に反対した。

音楽科ではもちろん音楽の授業が普通科に比べると多く学校で専門課程の勉強が出来て良い面もあるが、将来の道が音楽方面と限られてしまうので出来れば普通科に進学して欲しかった。

しかし娘の意思は固く、自分で願書も用意し、学校への行き方を調べ入試当日も一人で電車に乗って出かけていった。

音楽科の試験曲に至っては、レッスンを辞めてしまっていたので、これまでに弾いたことのある曲を自力で練習して弾いたという、なんとも無謀な高校受験だった。

そうまでして通った高校の音楽科、本人にはとても合っていたようで、遠くを通うことをものともせず、また高校でピアノを習うことになった先生が大変熱心にご指導くださり、充実した高校生活を送った。

名古屋芸術大学音楽学部(ピアノ専攻)を卒業し現在教職に就き学んだ音楽の力を発揮している。

 

子どものための人生~息子

息子が小学2年生から野球を始め、夫が息子のチームの監督になった。

小4からは試合も始まり、丁度その頃娘がピアノを辞めたこともあり、生活は息子と野球中心に。

土日祝日はとにかく野球に付きっきり、暑い日も寒い日もグラウンドに親子で通った。

中学から硬式野球のクラブチームに入ったため練習時間も長く、また夫も私も保護者役員となり、朝グラウンドに息子と一緒に行き帰るのはすっかり暗くなった夜。

大変ではあったが、楽しい仲間と一緒に濃い時間を過ごし、中学野球を引退するまでこの生活が続いた。

この頃娘は高校生となり、自分が希望して入った音楽科で素晴らしい先生に出会い、先生の指導のもと力をメキメキつけていった。(ほぼ娘放ったらかし)

さて息子はというと、そこそこ野球の強い高校に進学し野球漬けの毎日。

さらに、私までまたもや野球部の保護者役員になり、息子が野球部を引退するまでみっちり野球の日々を過ごした。

ピアノからは縁遠いスポーツの世界だったが、集団で一つの目標に向かって取り組んでいくのは、自分が中学生の頃に経験した吹奏楽部に似たものがあると感じ、大変貴重な経験が出来た。

気がつけば息子が野球を始めて10年、親子共々野球漬けだったが、あっという間で楽しい10年だった。

 

これからの人生~研鑽の日々

子ども達のために過ごした30代と40代、その間口コミだけで細々とやってきた教室も生徒さんが高学年になり塾や受験で辞める子が増え、このままでは発表会自主開催が危ぶまれる状況に

しかし、生徒さんが少なくなった分時間には余裕があり、また息子の野球も終わったので土日も自由がきくようになった。

これは自分が勉強する絶好のチャンス!

今までのレッスン内容を振り返って改善点を見つけだしたり、気になっていた教材の研究に取り掛かり新しいレッスンカリキュラムを作ったり、20年近くストップしてしまったリトミックの勉強をし直したりと、とにかく行動あるのみ。

レッスンを希望される生徒さんも低年齢化してきているので、興味のあった育脳について勉強し「ピアノdeクボタメソッド」認定講師資格を取得。

 

 

こんな先生に!

子どもの頃練習のサボリ魔だった私のことを、頭ごなしに叱ることなく手を替え品を替え練習できるように導いてくださった最初に習った先生は私のピアノの先生としての見本です。

中学時代に習った先生にはソルフェージュを鍛えていただき、高校で習った先生にはピアノ演奏の奥深さを教えていただき、大学時代の恩師には音楽を通して人生を学びました。

素晴らしい先生方に出会えたことに感謝しかありません。

 

私もそんな先生方に近づけるように、これからの人生邁進してまいります。

 

美濃加茂市・可児市 音の森ピアノ・リトミック 

 

森まちこ